ダンボールの特徴

人生最初の「オフアート」を受けたのもこの頃です。
画廊のきれいなお姉さんに、「この作品を買われますか。」と聞かれたのにはドキドキしてしまいました。
ギャラリーの世界では、これを「オフアートする」と言います。
こんなふうに、当時の僕は日本画も西洋の巨匠も好き。
給ばかりではなく、陶芸や日本の古美術も楽しんでいました。
現代アートも見れば、落語や映画にも通う。
寺山修司の演劇にはまったこともあります。
とにかくジャンルは関係な-、「これまで見たことのない目新しい何か」が面白くて仕方なかったのです。
考えてみれば、自転車で自由に画廊を巡っていた僕の原体験が、現在のギャラリストとしての体質を培ったのかもしれません。
何も知らなかったということもありますが、そのおかげで堅苦しい垣根もなく、身近に美術に親しむことができました。
当時の僕にとっての「美術」は、とにかく楽しく、ワクワクして、自由な世界への入り口でした。
今でもそれに変わりはありません。
美術評論では、中原佑介さんや東野芳明さん、峯村敏明さんといった人たちの影響力がありました。
瀧口修造さん、宮川淳さんはこの頃故人となっていました。
講談社の『現代の美術』の解説、『美術手帖』に掲載されていた評論や現代美術の歴史についての文章も読みました。
よくわからないところもあるけれど、それでも現代アートの骨格みたいなものが見えてきて面白い。
思えばあの頃が一番勉強熱心だったかもしれません。
モーレツではなくビューティフルな仕事を僕は、「美術の先生になる」との名目で母を説得し、東京聾術大学の芸術学科に進学しました。
ところが、大学に入ったとたん、美術よりもっと面白いことをたくさん見つけてしまったのです。
中学生の頃から大好きだった映画や演劇、大学祭などのイベント。
個性的な人との多-の出会いに刺激を受ける日々。
友人に会うのが大学に行-目的になってしまい、ろ-に授業にも出な-なってしまいました。
大学生活を送った一九八〇年代は、いわゆるニューアカデミズム全盛期で、僕はもろにその影響を受けています。
松岡正剛主宰のミニコミ誌『よい誰も見たことのないものに価値を見出すギャラリストの仕事子の歌謡曲』、村松友視の『私、プロレスの味方です』、それから蓮寅垂彦の映画評論など、とても懐かしいですね。
ハイカルチャーとロウカルチャーの区別や従来の「知」の枠組を超えて、新しい価値観をどう定義していいのかが問われた当時の発想は、既成概念や世の中の決まりごとを反転させて新しい価値を見出す現代アートと無関係ではないでしょう。
大学時代は結局、大学祭、自主映画の制作やシンポジウム、演劇の助手といった、いわゆる課外活動に熱中しました。
この課外活動で学んだことは二つあります。
一つは、面白いことをやっても、まった-お金にならないと思い知らされたこと。
興行としての演劇なのに、バイトをしながら練習し、公演後に演出助手の手当として配られたのは、なんとたったの五円。
完全に赤字です。
演劇はとても面白い現場ですが、これでは続けていけないと、五円玉を握りしめ、しみじみ感じたものです。
もう一つは、広告業界やその周辺のクリエイターの仕事ぶりを見て、仕事と趣味が一緒の状態で働ける職場があると気づいたことです。
当時は広告をアートのように考えることが流行っていた時代です。
仲間に誘われて、糸井重里さんの仕事を手伝う機会があって、非常に刺激を受けました。
学生時代は母親に「絵や映画を見るのが僕の仕事」と生意気にも言っていましたが、社会に出たら、会社に勤めて興味の持てない仕事をこなしてから遊びに行くのではなく、「自分にとって遊びのように面白い仕事をする」のが合っていると感じていました。
とはいえ、演劇の貧乏で悲惨な状況は身に染みていますし、広告業界はクライアントの要望があってのクリエイティブ、決して自由な表現の場ではありません。
自分にとってはアートという天衣無縫な領域が性に合っていましたが、どう考えてもアートが一番儲かりそうにない仕事でした。
そのアートが、仕事として成り立つのか。重大で制作しているアーティストの作品を間近に見ながら、皆目見当が付かなかったのです。
夜はバーテンへ、昼は画廊で丁稚奉公の日々。進路も決まらないまま卒業した僕は、夜は銀座八丁目のクラブ「厨子」で、バーテンのアルバイトをして日々を過ごしていました。
そんなとき、大学の先輩に誘われたのです。
「クラブの仕事の前、昼間に、どう。手伝ってみない。」
誰も見たことのないものに価値を見出す、ギャラリストの仕事銀座の西村画廊でのバイトの話でした。
もしかするとその言葉が僕の人生の大きな転機だったかもしれません。
僕はそれまで「画廊で働く」なんて思ってもみなかったので、軽い気持ちで引き受けたのです。
一九八七年、二四歳のときでした。
西村画廊は一九七四年に開廊した現代アートの画廊の草分けです。
僕が中高生の頃に通っていた画廊でもあります。
デヴィッド・ホックニーらイギリスを中心とした海外作家を紹介しながら、中西夏之、舟越桂、横尾忠則といった日本の静々たる現代作家の展覧会もしていました。
日本の現代アートにとって非常に重要な画廊です。
展覧会の準備中に、西村画廊の地下室で、横尾忠則さんと一緒にラーメンを食べたことがあります。
「ああ、あの横尾忠別の隣で、僕はラーメンを食べている。
なんて幸せなのだ!」と、僕はすっかり舞い上がっていました。
考えてもみてください。
横尾忠則といえばアート界のポップスター、日本のアンディ・ウォーホル。
そんな雲の上の存在が、美大を出たての若造と一緒に、ラーメンを食べているのですから。
こんな興奮が日常的にある、それがギャラリーの世界でした。
一カ月から二カ月周期で、ギャラリーは新しい展覧会をします。
そのたびに憧れのアーティストと付き合って、美術好きのお客さんと楽しい会話ができるし、画廊に保管してある作品ファイルを存分に閲覧できる。
作品の実物も、倉庫でじっくりと見ることができる。
ギャラリーの仕事は、僕にとってまさに「面白いことが仕事になった現場」だったのです。
やがてギャラリーの仕事に専念することに決め、クラブを辞めました。
それまでは学生の延長のようなラフな格好で働いていましたが、気持ちを入れ替えてスーツを着るようになったのも、この頃です。
結局、西村画廊には一九八九年まで勤めました。
そこで丁稚奉公のようにして教え込まれたことは、今の僕のギャラリストとしての仕事に大き-影響しています。
オーナーの西村建治さんは、「作品の背後には必ず生身の人間であるアーティストがいる」ということを、とても大切にしていると思います。
売ることだけを重視するのではなく、美術館やコレクターとコンタクトを密にとって、マーケットを着実につくっていく売り方です。
つまり、アーティストを「育てる」ことを重視した売り方なのです。
多くの画商が取るような、すでに有名なアーティストの作品を買い上げてそれを販売する誰も見たことのないものに価値を見出すギャラリストの仕事ブローカー的な方法とは、根本から一線を画していました。
今も若い作家をどんどん発掘して展覧会をしている活動にはいつも感心しています。
その西村画廊を辞めるときに、お客さんだった三瀦末雄さんが、白石正美さんを紹介して-れました。

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